遺品整理が人気の理由

そんな中で、この埼玉のC慶寺は、私にとって、昔のままの姿で残っている数少ない思い出の場所のひとつである。 戦後、私か1人前になったあとも何度かお伺いして、ご住職と当時の話に花を咲かせたものだったが、やはり、私同様、昔を懐かしんで訪ねてくる昭和小学校の同級生が何人もいるということだった。
戦後、久しぶりに訪れてみると、その頃は広く大きく見えた近所の川も、実際にはほんの小好川たったことに驚いたりしたものだった。 C慶寺近くの小川。
私がうっかり肥溜めに落ちてしまったとき、ここで体をゴシゴシ洗った記憶がある。 それでも、臭いがなかなか取れなかったのには閉口したものだった。
空襲に遭うこともなく、今も元気でこうして私か商売を続けていられるのも、すべてはC慶寺さんのおかげであり、やはり、これも何かの出逢いではあるのだろう。 そんな感謝の気持ちも込めて、疎開時代のささやかな思い出を書かせていただいた次第である。
疎開していたのがどれくらいの期間だったのかということは、実はあまり記憶に残っていない。 春夏秋冬のそれぞれの思い出があるから、おそらく1年前後はいたのだと思うのだが、母に訊いても、よく覚えていないようである。

両親に見送られて疎開地に出発したのがいつ頃だったのかはわからないが、その終わりとなった目‥ははっきりしている。 すなわち、昭和20年8月14日、終戦の前日のことだった。
その日、突然、母が私たちきょうだいを疎開先まで訪ねてきたのである。 引率の先生方がどういう話をしたのかは知らないが、ともかくも、その日を限りに私たち11人だけ疎開を終えさせて、東京に連れて帰るということだった。
C慶寺の最寄りの駅は、今で言えば、JR高崎線の熊谷駅である。 最寄りといっても、その頃は四バスなどろくに走っていなかったから、母と妹と私とで、2時間ほどの真夏の炎天下の道のりを、テクテク歩いたことを覚えている。
熊谷の駅舎もまだ燃って焼け跡の独特の臭いを発していたが、明日は戦争が終わるというのに、記録によれば、熊谷の街を80機以上のB29が襲ったというのである。 たった1日の違いで、687名もの人が命を落としてしまったということだった。
この熊谷の空襲が、戦争中、日本が受けた最後の空襲であり、はからずも私たちは、この歴史の1ページの目撃者になったというわけだった。 なぜ終戦の前日に東京に帰ることになったのかというと、皇居に出入りしていた父が、翌15日には日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏するという情報を、しっかりした筋から得ていたからである。

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